「ただいま。」
そう声をかけて玄関で靴を脱ぎながら、あれ?と幸村は呟いた。
リビングの扉から賑やかなバラエティー番組の音と蛍光灯の光が
洩れているが、いつもの聞きなれた「おかえり」という声が聴こえない。
スーツの上着を脱いで鞄を持つ右手にかけると、静かにリビングに続く扉
を開いた。
「ブン太…?」
いないの?と小さな声で呼びかけると、リビングの扉に背を向けて
テレビの正面に置かれているソファーから「うー」という籠った声が
聴こえてくる。
「?」
ひょいと周り込んでリビングの入り口からは死角になっている
ソファーを覗きこむと横になり膝を抱えて眠っているブン太がいた。
「だから、返事がなかったのか…。」
何もなくてよかったと安堵の息を吐いて、幸村はネクタイを緩めながら
ブン太の頭側…ソファの左側の空いたスペースにブン太を起さないように
静かに腰を下ろした。
「疲れてるのかな?」
ブン太の顔を覗くと、すぅすぅと穏やかな寝息を立てて幸せそうに眠っている。
穏やかな眠りの様子と横になって膝を抱えて丸まっている様子に口の端が緩む。
「ふふっ、猫みたいだな。」
左手で優しく頭を撫でてやると気持ちが良いのか、寝顔がさらにふにゃんとした
笑顔になるのにこちらも笑みが深まる。
頭を撫で、少し長めのしっかりとした紅の髪を指で弄んでいると
心が穏やかな気分になってくる。
社会人1年目。今の職場に配属されてからもう半年以上経ち、
雰囲気にも仕事にも少しは慣れてきたと思っていたけれど
気付かない間にやはり心身ともに疲れていたらしい。
ブン太の髪を撫でているうちに心の奥にあった澱のようなものが
スッと溶けていくような感覚がする。
「癒される…」
そう呟いて幸村は目を閉じて飽きる事なく、ブン太の頭を撫で続けていた。
PR